日本ミャンマー交流協会 AJMMC:

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追悼・野口先生

Dr.Noguchi (1).jpg ミャンマー航空宇宙工科大学(Myanmar Aerospace Engineering University)がメッティーラ(Meiktila)に創設されたのが2002年。翌年3月に野口先生がミャンマーを訪緬して同大学を訪問。このときに出迎えてもらったのが当日初代学長を務めていたニランゲ(Prof. Nyi Hla Nge)氏で、同氏は当時所管庁である科学技術省の副大臣を兼務されていた。野口先生はこのニランゲ氏の依頼を受けて、大学で講演を行うことになったが(※左上写真参照)、それから2012年8月に急逝されるまでこの大学との長い関係が続いた。野口先生は、ニランゲ氏の依頼を受けて航空工学に関する特別講義をヤンゴン工科大学(YTU)で行うようになったが、当時はYTUIの航空工学科が新設の航空宇宙工科大学(MAEU)に完全に移転する前で、野口先生はしばらくYTUで学生たちを指導されていたように思う。

Dr.Noguchi (2).jpg野口先生はTV番組の「鳥人間コンテスト」で長い間、審査員長というかコメンテーターを務められていた物で航空機の専門家として知られている。どういうわけかミャンマーでの指導に熱心に取り組まれていたので、ある日、その理由を尋ねたところ「父親が紫電改に乗っていて当時ビルマ方面作戦でここに来ていた。その縁かも知れないが自分にとってここは他所の国という気がしない」と言われた。しばらくして、学生たちにどうしても本物の飛行機の製造の機会を提供したいと、ニランゲ氏と話し合い、ウルトラ・ライト・プレーンを製造することになる。
(※左上の写真はヤンゴン工科大学で指導中の様子)

Dr.Noguchi (3).jpg指導の場所がメッティーラに新設された航空宇宙工科大学に移った後、しばらくは毎回ヤンゴンからマンダレー行きの夜行列車に乗って早朝5時頃にTharziの駅で降りて迎えの車で大学まで通うということをされていた。揺れがひどく座席が木製ということもあり、毎回相当疲れる行程だったが、学生たちと授業の合間にコーヒーを飲むのだといって日本からコーヒーメーカーとコーヒー豆などを持参し、彼等との会話を楽しみにされているようだった。当時の教え子は既に卒業しているが、中には大学に残ったり、日本の大学に留学したりしている。それから数年後の2007年頃、体調を崩し、心臓のバスパス手術などを2回行いドクター・ストップがかかって訪緬できなくなった。(※上の写真はウルトラ・ライト・プレーン製造の合意書面に調印後に談笑するニランゲ科学技術省副大臣(当時)と野口先生)

 製造途中だったウルトラ・ライト・プレーンは90%ほど完成してはいたが未完成のままだったことをご本人はかなり気にされていた。しかし、2004年11月に日本から6人の整備士兼パイロットがコンテナに分解搬入された寄贈の中古軽飛行機と共にミャンマーに入り、航空宇宙工科大学で(当時工事中だった大学の格納庫において)組み立てて、テスト及びデモ飛行に成功していたので、あまり気にされないほうがいいと関係者からも言われていた。

Dr.Noguchi(4).jpgその野口先生が再び訪緬できるようになったのが2011年。当時からカウンターパートだったニランゲ氏も新たな立場(科学技術省顧問)で歓待してくれ、2人そろって大学を訪問し、今後の活動計画などを大学関係者と相談。航空機以外の分野でも協力してゆくことになり、それから何回か訪問されていた。ところが、今年(2012年)7月に渡航ビザを取得した後、出発予定の2日前に体調が思わしくないため検査入院することになった。訪緬はそのかん延期することになりヤンゴンに伝えられた。その野口先生が約1ヶ月後、入院先で急逝された。知らせを受けたニランゲ氏は言葉を失っていたが、協会で預かったままになっていた野口先生のパスポートを持参したところ、それに追悼のメッセージと自分のサインを書き込んでくれ(※左上写真参照)、「大学の関係者も深い悲しみの中にあります。自分たちが野口先生にいろいろなことをやらせたり、頼んだことが先生の生命を縮めたのではないかと後悔しています」と言われた。少しだけ思い出話をされていたが、誰もサポートすることのなかった大学の草創期に関与して、ミャンマー側関係者も頼りにしていた野口先生の急逝はニランゲ氏ばかりではなく大学の多くの関係者に動揺と悲しみをもたらすことになり、言葉もなく沈黙する時間が何度も続いていた。