日本ミャンマー交流協会 AJMMC:

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100億円vs25億円

以前、ミャンマー側から新聞紙と一般紙を1日各50トンずつ、合計100トンを生産できる製紙工場Tabaung Paper Mill 1.JPG建設の打診があり、関係者が乗り出したことがある。この規模は日本ではとても小さな規模らしく、新設工場としては関心を示さない企業もあったが、日本側が何より気にしたのがファイナンスをどうするのかということだった( これは今でもあまり変らないと思われる)。それはともかくとして、関心をもった関係数社が訪緬してミャンマー側と協議することになりヤンゴンにでかけた。製紙・パルプの製造はほとんどが政府機関で行われており、そことの話し合いが中心だったが、一行の滞在中にミャンマーの民間企業のひとつが関心を示し、そちらとの相談も併行して行われることになった。前者との協議では、プロジェクトの内容等の説明があり、計画予定地まで案内され、技術者を含めてかなり熱心だった。(今もそうかも知れないが)当時、NATOと呼ばれていた日本企業だが、このとき訪緬した日本企業数社は帰国後に関係当局幹部3名を直ちに日本に招へいして工場を案内したり、協議を重ねたりと積極的な動きを見せていた(ちなみにNATOとは、No Action, Talk Onlyの意味)。ファイナンスは日本の中堅商社がつける方向になった。このとき( 日本側関係者は全く情報を入手できていなかったが)、同時併行的に中国側からも当該プロジェクトに対する働きかけが行われていたらしく、日本側関係数社が提出したプロポーザル資料ではイニシャルコストが約100億円と算定されており、Grace Periodが2年、Down Pyament が20%、利息は年3.5%だったように記憶している。分量は関係ないかも知れないが、日本側が提出した書類は分厚かったのに対して中国の国有企業のものはその10分の1もなかった。ミャンマー側のエンジニアはほぼ全員が日本企業との締結を求めていたが、決定的だったのはその価格。中国側の提示額は約25億円。どうしてそういう金額で可能なのか判らなかったが、これでは勝負にならない。以後、中国企業がこの分野に次々に進出するこれが最初だったように思う。

Tabaung Paper Mill 2.JPG日本側は結局敗退したが、民間企業との交渉が残されていた。こちらはトップが政府当局よりも熱心で、中国側からのアプローチがなかったこともあり、話はとんとん拍子に進展した。「Down Payment 相当額は今すぐに払う」。ファイナンスが問題になることを知って、訪緬した担当取締役に対して「本社にここから電話して確認して欲しい」と言われ、ミャンマーから日本に電話をかけて対応を確認。本社からOKがもらえたということで、その日に担当者を部屋に読んで、手書きでMOU(Memorandum of Understanding) の作成が始まり、その完成後に日本とミャンマー側関係者がそれぞれ署名して、この手書きのMOUへの調印も終わった。その際、日本側のファイナンスをつける予定の会社の取締役から、民間企業の会長に対して、「あなたもここにサインして欲しい」と言われ、会長は表紙に押印されていた社印の場所にサインした。これで上手く行くと思って関係者は安堵した。しかし、帰国後事態は急変。ファイナンスを一度はOKした会社がいろいろなことを心配して結局取りやめたいということになったのである。MOUを作成し、サインまでして、当事者間の事情及び客観的事情は何も変らないのに、短期間で気が変わって一方的に破棄するという事態は、ミャンマー案件ということであってもほとんどないことである。

協会が本当に大変だったのはここからである。日本側はそれで終わったとして、二度とミャンマーに行かなければいいが、我々と間に立っていたミャンマー人関係者は窮地に追い込まれることになった。MOUを一方的に破棄するもっともな理由がないのである。相手は民間企業とはいえ国内最大規模の会社であり、下手すると協会の信用は一気になくなるのではないかと思われたし、協会のために動いてくれていたミャンマー人パートナーたちの立場も気になった。どういうことをすればこれを打開できるのか数人で必死になって考えたがいいアイデアは出て来ない。そんなとき助け舟を出してくれたのが日本の大手エンジニアリング会社の中の1社だった。事情を理解して新たな交渉のためにわざわざ幹部3名が訪緬してくれたのである。この会社の名前は当時からミャンマーでもよく知られていたこともありミャンマー側も歓迎してくれたし、国営紙にも訪問の記事が出た。それは個人的に受けた印象だが「やっと来てくれた」といったようなトーンだった。話は順調に進み、シンガポールのDBSの保証をミャンマー側で取り付けたいというところまで行った。しかし、顚末は不調に終わる。相手となった企業の会長が更迭されたのである。この時から10年は経過した。この間、製紙分野に限らず中国企業はますます進出を拡大させ、韓国企業の進出も著しいが、日本企業は伸び悩んだ。