日本ミャンマー交流協会 AJMMC:

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岩倉先生

                              Late Iwakura (Party).JPG昨年9月10日、脳梗塞により急死された岩倉先生は、多方面で活躍されていた人で特に農政に関しては高名な方だった。
日本ミャンマー交流協会が法人化したのが2000年7月で、まだ立ち上がったばかりの頃、今後どういうふうに展開してゆくのか何もわからない時期の2000年12月に開催された創立協会に来賓として出席してもらい、スピーチまでしてもらった。

 この当時、岩倉先生はすでにミャンマーではよく知られた人であり、それがどうして立ち上がったばかりの弊協会の創立記念パーティに出席されたのか今でも不思議な気がする。
それから何度かお目にかかる機会があったが、岩倉先生をミャンマーで有名にしていたのが、シャン州北東部のゴールデン・トライアングルと呼ばれた地域でのケシ栽培の撲滅活動に取り組まれていたことによる。ケシの代替作物として日本のそばを栽培して、これを日本に輸出することで地元農民のケシ栽培を減少ないし撲滅させようという取り組みを推進されていた。ミャンマー政府も各国及び国際機関などと協力して当時からこの問題に熱心に取り組んでおり、岩倉先生たちの活動もサポートしていた(ちなみにケシ栽培に関してミャンマー政府には歴史的に責任はない)。

その岩倉先生が(プロジェクトの)最初のころの話をされたことがあるが、(記憶では)「最初50トンの栽培用のそばの実を現地に運んだが地元民は『外国人は二度と来ないだろう』と思ったらしく、それを栽培しないで食用として全て食べてしまった。それでどうしようかと思い自宅を抵当にいれて50トン分の追加買い付け費用を捻出しようかと考えたこともあった」といったことなどを紹介されていた。このそば栽培のプロジェクトに関するエピソードを聞く機会はその後も何度かあったが、当時(2001年ころ)都市センター地下1階での会食のときだったと思うが、「ケシでつくられるアヘンの原産地価格を知っているか」と訊かれた。「アヘンの原産地価格は1トン当たりUS$800程度だ。これが最終価格になると250倍以上になる。収穫されたそばは日本の関連団体との話し合いで、1トンあたりUS$300で買ってもらえる。日本のそばの消費量は年間約12万トンくらいだが、そのうち国産は2万トンくらいで、後は輸入。その大半は中国産で価格は1トン当たりUS$200程度(当時)。ほかにカナダやアメリカからも来ている。ミャンマーのそばはこれより高いが、目的に配慮してその値段をつけてもらった。それでも年3回つくらないとアヘンの価格を超えないからなあ」と言われていた。

                            実際の栽培地に行くのはlate Iwakura (Party2).JPGミャンマー人ですら簡単ではなかったが、訪緬されるごとに現地に出かけられており、その度に農民の信頼を得て行き、そばの栽培も順調に進み、これから栽培地域をもっと拡大して行きたいという話もされていた。誰よりもミャンマーに対する思いと期待が強い人だという印象だった。「私は訪緬の都度、3日目くらいに一度は体調を崩すのですが、そういう場所でお腹をこわすようなことはないのですか」と、あまり関係のない質問をしたことがあるが「一度もない」「体調を崩すようなら普通の水で歯磨きをするとかして少しずつ慣れたらいい」という回答が返ってきた。岩倉先生が語るこのプロジェクトに関するエピソード談は興味深いものが多かった。とりわけ協会のススさんとは仲がよく、訪緬される毎にヤンゴン事務所を訪ね、ときには自ら写真を持参してススさんに説明などをされていたようである(2人とも某ホテルの幽霊というか精霊というか、そういうものが見えるという他人には理解できない共通の話題もあった。見えているものの姿も一致していた)。写真上は設立パーティのときのもの。下はヤンゴンでの打ち合わせの様子?写真奥が岩倉先生。右がススさん。

late Iwakura (Meeting).JPG

その岩倉先生が自民党の審議役を退職された年の12月、ミャンマーに関係している各位が居酒屋に集まったことがあり、そこでミャンマーを肴にいろいろな話をした。その席で、協会の石井理事長から「弊協会の名誉理事長に就任して頂きたい」旨の申し入れがなされ、岩倉先生は快諾された。以前、「ケシの撲滅だけではなく、ミャンマーとの関係を発展させることに尽力したい」とメディアのインタビューに応えられていたことがあり、ミャンマーと日本の関係をとても気にされていたこともその理由だったと思う。その後、協会関係者の活動をみて大変高く評価してもらったことを思い出す。訃報をヤンゴンのススさんに伝えたが、彼女から返ってきたメールには「日本の進んでいる技術でも先生の命を助けることはできませんでしたね。悲しい知らせです。私が1人で出かけたとき、アポイントもなかったのに会議室から出て来てくれ、コーヒーを飲ませながら話してくれた岩倉先生がこんなに早く亡くなるとは思いもしませんでした。『僕にメールしてね』と何回も言って下さった岩倉先生の顔が目にみえて、ごめんなさいね・・と心から謝るけど、岩倉先生は聞こえないかもしれないね。本当に悲しい・・悲しいです」とあった。

何年か前からモザンビークでの活動に取り組まれているということを関係者から聞いたが、協会もこの数年間パーティを開くことがなかったので先生と会う機会はなかった。それでも、何度か電話でミャンマーのことや我々のことを訊かれており、「そうか」と言っておられた。ミャンマーのことは気にされていたと思う。