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認識票

Meiktila.JPG19万人とも20万人とも言われる戦死者を出した第二次世界大戦中のビルマ方面作戦に従事し、メッティーラ(Meiktila: 当時の日本語表記はメイクテーラ)で戦死したとの通知を受けたある日本兵の遺族が、2010年10月下旬に、60年来の念願だった慰霊の訪緬を果たされた。

生きている間に亡き兄の慰霊のため現地を訪れたいという希望を抱き続けて来られた母親のために、娘さんが尽力して実現したものだが、ヤンゴンの日本人墓地、ザガインヒルの慰霊施設及び戦死されたというメッティーラなどを無事訪問することができた(写真はメッティーラの日本人慰霊碑と施設)。訪問されたメッティーラは快晴だったが、そこに入るときと出発するときの両方で突然雷が鳴り響き、まるで亡き兄が来てくれたような気がしたと帰国後に話されていた。当時メッティーラの戦闘に参加されていた兵士の1人(現在93歳)によると、3日間の戦闘で大隊長以下、636名が戦死するという激戦地だった(ちなみに情報を提供してもらったこの元兵士の方は、負傷のため2回も野戦病院に入り、幸か不幸か終戦まで現地で第一線に参加していたと話されている)。ミャンマー国内にはこのような旧日本兵の慰霊碑等が各地に存在しているが、その全てが今はミャンマー人たちによって清掃や供養がされているといっても過言ではなく、その場面に出くわした日本人は自然に何とも言えない気持ちになる。日本人は、経済や政治だけでこの国を見ていていいのだろうかと思わされる状況がここには存在している。

 

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慰霊のため訪緬された2人の話では、メッティーラ滞在中に、日本人が来ているというので住民の1人が会いに来て、旧日本兵の認識票(写真参照)を持参し、これを遺族の方に返して欲しいと言われ、預かって帰国された。認識票だから記載されている番号等で持ち主が判るだろうと思って、相談を受けて協会事務局から厚生労働省に確認依頼をした。しかし、担当者の話では、当時は認識票の番号と本人を確認するための原簿記入等が行われておらず、残念ながら認識票だけでは誰が持ち主なのかを確認することはできないという。

そこで財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会に相談したところ、まず聞かれたのが「裏面に何か記載はないか」ということ。しかしそういう記載はなかった。結局、記載されている菊8903に所属していた関係者7人を紹介してもらい、個別に西48、番3031の認識票を所持していた旧兵士を知っているかどうかを確認するしか方法がないことがわかり、やむを得ず書簡を送って打診してみることにした。ご本人から連絡があったのは1通、既に逝去されてご子息が別の関係者に委託され、そこから通知を受けたのが1通、合計2通が返信されてきた。前述したが、連絡があったご本人というのは現在93歳で、鮮明かつ具体的に当時の状況を記載されていた。それによると、「菊8903は確かに私が所属していた部隊で、第18師団歩兵第56連隊の戦時中の呼称であり、西48は、当時の西部48連隊(久Sagain Hill.JPG留米連隊)の記号だと思う。番3031は、この認識票を交付された兵士の身元番号」だが、「何年も密林や野戦の戦闘でほとんどが失われており、遺品として遺骨収集などのときにも発見されておりますが、完全にご本人のご家族の許に返されたことは聞いておりません」といった内容だった。

このようなわけで、結局今まで持ち主だった人のことは何も判っていない。ミャンマーに行くと認識票だけではなく、ルピーを単位としていた当時の軍票や日本刀などが今でもお土産として売られていたり、出て来たりしている。バガンで大量の軍票を売りに来た村人の申し入れを断わったという関係者がいたが、帰国後に、あれも戦争当時にかつての日本人が何かの対価として払ったのだろうから買っておげばよかったと悔やむ人もいた。他方、軍票には番号が印刷されていないものがほとんどで、番号なしのお札は希少価値があると思って大量に購入したものの、帰国後ほとんど無価値とわかってがっかりする人もいたりする。今年1月に留学を終えて帰国した学生は「私の祖父は日本人で元兵士でした」と話していた。ミャンマーは今でも戦争の時代の日本が時々顔を出してくる。