日本ミャンマー交流協会 AJMMC:

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シン・ピンニャーサッカ

Mr.Kawahara monk.JPG分解してコンテナに積み込んだ軽飛行機が無事にヤンゴンに着いたが、いったん没収されたことと、そこに至る経緯は前回のコラムに書いた。既にそのころ、日本から4人、アメリカから2人の合計6人の整備士兼パイロットが組立作業と試験飛行のため訪緬の準備を行っていた。彼等の経費は協会理事の河原氏が負担したこともあって、同氏はヤンゴンに先乗りして一行の訪緬を待つことになった。没収された軽飛行機は当局によって念入りな検査が行われ、特別なものではないことが確認されていたので、後は航空宇宙工科大学への寄贈の趣旨を理解してもらい、引き渡しの許可を得る交渉を残すのみとなっていた。話は科学技術省の副大臣と学長等を窓口にして行われたが、大臣も理解してくれていたため上位のOKがあれば予定通り遂行できるところまで来ていた。ちょぅどその頃、先乗りしていた河原氏が僧侶になると言い出した。写真は正式僧になるための得度式の最中の河原氏(バゴーの寺院にて)。

Mr.Kawahara at Temple.JPG 母親の実兄がビルマ方面作戦に参加して戦死しているのでその供養のためと今回のプロジェクトが無事に進行するように、というのが主な理由。驚いたが、ミャンマーの関係者は大喜びした。そのための経費を寄付したいというのが何人も現れた。功徳としてかなり高いレベルのことらしい。(還俗した後、河原氏が飛行機の件でサポートの御礼に科学技術省に出かけたところ、応接した副大臣も、次回、出家するときはぜひ自分にやらせて欲しいと話していた。なお、同副大臣は現在別の省の大臣に就任)。

出家のための得度式に臨んだのはヤンゴンから北東約80kmほとりところにあるバゴーの寺院。大きなところではなく小さな集落にあるお寺で、日本人が出家するというので80人余りの人が集まった。パーリ語で行われる得度式を済ませ、先輩僧からピンニャーサッカという法名をもらう。僧侶である以上、外国人といえども200以上の戒律に従って生活する。12時を過ぎると食事はできないので、11時30分ころの食事が最後となる。それが不安だったのか皿に大盛りで出されたご飯を4回もおかわりしてしまい「食べ過ぎて苦しかった」というのが本人の弁。食事の後、持参したTシャツを集まった子どもたちにプレゼントしたり、村人には1人500チャットを3回も寄付。この大判振る舞いのため河原氏のいくところ婦人連中がぞろぞろついて来る。そのなかの1人に「あなたは昔、ここの王様で、私たちはその夫人だったから日本までついて行く」と言われたらしく、「一刻も早くそこを立ち去りたい衝動に駆られた」。「もう2度と行かない」とヤンゴンに戻った後、話していた。 上写真はその婦人たちとの記念撮影。

数日後、ヤンゴンに戻った同氏は、僧侶の姿のまま市内のTraders Hotel, 日航ホテルと動き回り、海事大学の副学長とかいろんな関係者に目撃されている。事務所があった宿泊先の日航ホテルでも、協会スタッフやホテル従業員に、膝まずいて手を合わせられたりとその種のことが続いた。とにかくよく目立つのである。日本人というだけではなく、180cm以上の身長、空手の元日本チャンピオンという体格の僧侶だから当然といえば当然だが・・。ずれた法衣を片手で跳ね上げると西部劇のガンマンのようにも見える。ヤンゴンではお寺ではなく日航ホテルに宿泊したが、もっとも困ったのが朝の食事。パイキング形式になっているためである。僧侶は自分で選択できない。常に介添えがいるし、食べたいものを口に出せないのも辛い。ホテル滞在中は毎日ジムに通い、泳ぐのを日課としていたのに、僧侶ではスポーツもできない。お寺にいればやることはあるが、ホテルでは時間をもてあますし、動き回るとお腹も減る。バゴーよりヤンゴンに戻ってからのほうが本人には辛く、還俗の儀式の日を迎えたときは、もうやらないと話していた。しかし、それから数年後、今度はアンダマン海に浮かぶ島でまた僧侶になった。それも、島で初めての僧侶というおまけまでついた。