日本ミャンマー交流協会 AJMMC:

ホーム コラム 不運な1日

不運な1日

flight simulation.JPG 2002年8月にメッティーラに新設された航空宇宙工科大学との関係がスタートしたのは翌年3月頃からで、複数の協会関係者が特別講義を度々実施するようになった。もとはヤンゴン工科大学(YTU)にあった航空工学科を独立させたような大学だったが、この当時は、ヤンゴンとは生活環境が異なるためYTUの 先生たちはメッティーラには行きたがらないという話も聞いていた。もっと問題だったのは、集められた学生たちは飛行機に乗ったことがないし、身近に体験できる飛行機もないという状況で、新設大学には設備らしいものといえばノートパソコンにフライト・シュミレーターのソフトを入れたものが置かれていただけだった。(左写真参照)。特別講義のためここを訪れた専門家の中には操縦桿のキットだけでもプレゼントしたいとして持参した人もいた。もちろんこの頃は風洞実験室のようなものもない。設立間もない時期で全てはこれからという状況だった。

hangar.JPG特別講義に参加した専門家の話では、学部の授業で日本の大学院レベルのことが教えられていたことに驚いたが、テキストの暗記がメインで応用問題になると戸惑う学生が多かったという印象を語っていた人もいた。このような状況では航空工学を学ぶ学生も減るし、実践的ではないというので「組立・実験・操縦等の訓練に役立てる趣旨で、何でもいいから軽飛行機を寄付しろ」ということになったが、もちろん簡単なことではなく、適当な中古機を探したり、キャッチオール規制にかからないか当局と相談したり、現地とのやり取り、輸出の準備や資金面の手配、その他と半年以上の時間がかかった。肝心の軽飛行機は某会社が購入し、整備士とパイロットの経費を協会関係者が負担することでプロジェクトは進行していった。

2004年10月19日午前10時、分解してコンテナに詰め込んだ軽飛行機が無事出航したという報告があった。準備などで大変だったので少し気が楽になり、その旨をヤンゴンに連絡、後はコンテナ到着後の準備や手配を任せた。ところがその日の12時、TVニュースで「ミャンマーの首相失脚」の報道が流れた。飛行機の輸出関連書類の荷受人名義は、教育委員会の会長宛で、その首相が兼任していたのである。それから終日、書類の名義書き換え等の問題で忙殺されることになり、結果としてミャンマー側に提出した書類等は、航空宇宙工科大学の学長宛に書き換えることはできた。しかし、関係者間では、「大学での実習用だから問題ないだろう」「いや没収されるのではないか」「没収されたらどうなるんだろう」「整備士とパイロットの手配はこのままでいいのか」「様子がわかるまで延期または中止したほうがいいのではないか」など深夜まで気をもむ時間が続いた。また、この同じ日、現地時間の午後6時40分に到着予定のタイ国際航空305便で高知大学の大野先生がヤンゴン入りする日でもあった。もちろん何も知らされていない。しかも、海水を含ませた海藻5kgを持参している。関係者が通関に立ち会える状況ではないことが予想され、事情を知らない当局によって没収されるのではないか、そしたら何もやることはないので滞在中どうされるのだろうか、などを思った。ヤンゴンとの連絡もほとんど出来なくなっていて、これまででもっとも運の悪い日になってしまった。

長くなるのでこの件は項を改めるが、結論から言えば、飛行機はヤンゴンに到着後いったん没収されたが(書類の宛先を全て書き換えたと思っていたが、航空貨物専門の通関業者だったせいか習慣でコンテナ内の機体にも書類が貼り付けてあったため)、交渉の結果、趣旨を理解してもらうことができ、無事に大学の格納庫に搬送され、その後の作業に着手することになる(上写真は、当時、まだ工事中だった大学に併設された格納庫)。海藻のほうは大野先生に依頼した韓国の企業が、韓国大使館に依頼して通関させていた。日本の大使館ではこういうことはできないと思われるが、韓国大使館のこの基本姿勢は現在まで続いているようにみえる。

ところで、大学に搬送してもらえるように決まった頃、何かのことで(失念した)、ある省の中堅幹部と日本食を食べることなった。そのとき、この幹部から「ここだけの話だけど・・」と言われて聞かされたのが、「日本はやることがすばやい。首相を助けるためコンテナで飛行機を送ってきた日本人がいる」ということだった。どうやらそういう噂が出ていたらしい。めまいがしそうになったが、緊迫感もつたわってきた。