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今日も暮れ行くイェニの丘

竹林調査2.JPG28年前、奉職していた会社が第一工業省所管のPCIC(Paper & Chemical Industries Coopearation)との間で、イェニ(Yeni)の製紙工場でバンブーパルプから印刷筆記用紙100MT/Dの増設計画に関するコンサルタント契約の話があり、その打合せ、現場及び技術調査などのため何度も訪緬した。昭和58(1983)年12月18日から実施された現地調査その他のため、メガノギス・50m巻尺・小型のコンパスなどを持参し、ヘーホー北部の竹林に入った。写真は当時の日緬の混成調査チーム

竹林調査1.JPG現場まではジープで出発したが、途中で6頭の像に乗り換え一列縦隊で進む。後ろから工場幹部や銃を抱えた兵士が続く。像の背中には日本人用のカゴが取り付けられ、首の辺りに地元の若者が座り、両足で像の耳をたたくという方法でコントロールしている。上に登っているときはよかったが、調査を終えて下山するときは今にも落ちそうなくらい前につんのめる姿勢になって怖かった。竹林の調査中、尿意を催した日本人2人がその旨を告げたら、同行していた兵士が一斉に外に向けて銃を構え円陣をつくった。その真ん中で小用を果たす。 写真は竹林調査に出発する前。

イェニの製紙工場に併設された宿舎に滞在中、毎朝6時にラジオ体操をやった。前の通りをピンマナのほうへ向かう若くて背の高いお坊さんが鉢を抱えて真っすぐ歩いて行く。その後ろを5,6歳の子供のお坊さんが一回り小さな鉢を抱えてついて行く。だんだん離される。走り出して追いついて行く、また離される。それが今も印象に残っている。決して快適とはいえないイェニ暮らしの中で歌われたのが「今日も暮れ行くイェニの丘に、メルクシパインとバンブーから、我慢だ頑張ろう、あと2年すぎりゃ紙は出て行くラングーンの街へ」の(異国の丘)の替え歌だった。 (藤田)